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1 2007年 07月 13日
先日、感受という文字が「神受」と見え深くうなずき納得。
でも、もう一度見直すと「神受」という文字などどこにもなくて。 神様はそうやってメッセージを届けてくれたりもするのですよね。 感受性…それは感じて受け止めること…って当たり前? でも、感じるだけでは神受とはいえないのですよね。 たとえば「怒り」はいけない。「憎しみ」はいけないetc. その思いはいけないからと「無い」ものにしようとしたり、誤魔化したりしていると、 本当のこころが感じられなくなってしまうのですね。 本当のこころ…それが神のこころ。 どんな思いも、全ては人間ゆえの体験で進化の道具。進化これ、神化。 感じることを怖れ、頭で正当化しようとしたり、理屈をこねたりしていると 神を感じられなくなってしまうのですね。 頭が動いている間は、本当のこころは聞こえない。 本当のこころは、静寂の中にあるものです。 感じて受け止めて、そして頭はそれを翻訳するところかな。 そしてね、些細な事も「神様最良を教えてください」と指示を求めるていくことのように感じます。 神との対話とは、自分の本心と向き合うことと同じこと。そして、それは「対和」^^ 昔、合宿で北海道を半月ほど自転車で走り夜行列車で東京に帰宅したときのこと。 朝一番の山手線に乗っている人たちの顔が怖く感じられてびっくりしたものです。 みんな怒っている様子なんですね。 北海道に行く前は、山手線に乗っても感じなかったのは、自分も同じだったからでしょうね。 街を歩いていて、その時の感覚を再び感じていた昨今でした。 自分の本来の素晴らしさに気がついていない不満という仮面顔。 でも、その顔の奥にある本当の姿が見えるようになったのは進化かな。 みなのこころが微笑み溢れるような世界…。 それを感じて受け止め続けています。 ■
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by machikopao
| 2007-07-13 17:34
| 天使のつぶやき
2007年 07月 13日
ここのところ聖書づいていました。
何度も書いておりますが、私は特定な宗教には属していないのですね。 いつだったかな?ひとりの友人が、聖書を読む教会に行き出したと言ったのです。 もともと彼女は、違う次元ともつながるような感性のキャラ。見えるものも幅広く。 行くことによって、自分の再認識と解放につながったようです。 その彼女に「まちこちゃんにとって聖書は邪を祓うもの…そう、聞こえてくる。 家に置いておくだけでもいいと思うよ」と言われ。「う~ん…」と唸っていると、 「あっ、でもまちこちゃんの中に聖書があるんだ」と言われたのが、2ヶ月ほど前。 次に「まちこちゃんにとって聖書はラブレター」と言われたのは先月のこと。 さらに、違う友人から教会に行き出したという話を聞いて。 えっ?彼女が?と驚くやら、でも嬉しいやら。 すると、間もなくして姉が教会に行こうかな?と言い出して。 「あ~、それいいよ。行きな行きな」とすすめていたばかり。 彼女と私は、幼稚園がクリスチャンだったので、ありうることではあるのですがね。 (ちなみに、幼稚園はクリスチャン。家には神棚と仏壇があるような環境でした^^) なんだかキリスト教(それも、聖書を読むだけの)づいてるな~。とふと思い。 そういえば、この2ヶ月ほど家事をしていたら目の前にイエスさまの姿。 また、迫害の記憶がリアルに蘇ったりしていたもので。 そんな数日後、ポストに入っていた「生命之光」 またもや聖書。さすがに読む時が来たのかな。 と思った午後に、さらに違う友人から「聖書を読む時が来たんじゃない?」との手紙。 とうとうその日に買いました^^ まずは聖書を立ち読み。開いたページが最後の「至福の千年王国」の様子。 なるほどそういうことかと、買ったわけです。 聖書を持つ手が震え、過去の人生で相当な恐怖を刻んだことを思いました。 聖書、般若心境、祝詞。我が家に揃い踏み^^ なんだか、それだけで嬉しくなっているこの面白さ。 読む気は起きないので寝室に置いておこうと思っていたのですけど。そのまま読む流れ。 「わかろうとしないこと」とそんな感覚が届けられたのです。 思考で「わかろう」とした瞬間に、わからなくなる…そんな気づきとともに。 教皇やっていた体験もある魂。 真理に気づきそれを広めようとしたため毒殺された体験があるらしい。 きっと聖書は読んでいるはず。 わかろうとせず、ただサラサラサラと流していくだけでいいね…とも思ったり^^ まずは旧約聖書の初めから…案の定名前やら何やらちんぷんかんぷん。 古事記に通じるものがある気もしたり。 でも読み流せて、いろいろなことを何かを感じているんですよね。 そして、聖書と目の間に、繊細でキラキラしたエネルギーが満ちているではないですか。 さらに、3つの目で読んでいるという感覚が。 肉眼の二つの目。そして眉間の第三の目が聖書に光をあてている感じ。 トンネルの中に入る人が、おでこにライトを付けているよなイメージで。 今朝、あの「神の目」の意味が今響いたのでした。「神の目」で見る時代。 聖書はまだ、読み出したばかり。これからさらに変化が起きるのか起きないのか。 読むのか、途中で辞めるのか^^ ゆるりゆるりと味わっていくとします。 ■
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by machikopao
| 2007-07-13 16:05
| 天使のつぶやき
2007年 07月 13日
先日、続けて夢を通して届いたいくつかのメッセージ。
その夢については、また改めて^^ と同時に、家事をしていたらお腹の奥の奥からわいてきた感覚がひとつ。 「一切を捨ててゼロにする」 かつて生まれ変わる体験をして以来、何も掴まず自分すらも掴まないよう、 常に捨てながら生きることを心がけてきていました。 でも、あまりに自然に身についていて「掴んでいる」ということにすら気づいていない… そんなものに気づく時もよくあって。 それは、捨てる時にはちょっと覚悟と責任を要すもの。 今回は、それだったよう。 自分を育ててくれた「善」と呼ばれるものを、一度全部捨ててゼロにする。 かつて、自分が信じてきたものを一度全部捨てさせられた時と同じ。 ただ、今回は前回のような怖さはなく、奮い立つ勇気が静かにむくむくと^^ 神(自分)への信頼、神の実感が深まった証かもしれませんねぇ。 「さらなる世界」は、今までの概念や道徳観すら足かせになるもの。 なぜなら、「神に善悪の判断はない」からなんですよね。 全てが「善悪を超えた存在善」 自分を育ててくれた「善」に深く感謝をし、それを手放しました。 するとね、「思いがけない思い」が解けたんですね。 思いがけない…その時まで「その思い」が煩わしいものだとすら気づいていなかったほど。 「思い」って、実にうまくドラマを作ってくれるものだとしみじみと。 進化のための神の脚本は、まさに「はてしない物語」 そして、その日ポストに『生命之光』という冊子が入っていました。 我が家のポストにはいろいろな宗教の冊子が投函されてくるのですが…。 それは、聖書に基づく学びのものでした。 そこに、こんなお言葉が↓まさにお返事ね。 「多くの人は宗教といえば、何か道徳的な善きことを行うことだと思います。 しかし、その考えは道徳でありまして、福音ではありません。 福音とは、道徳、戒律を押し付けることであるよりも、 善き魂へと回心させることです。そうすると、自ずと善を行う力が湧いてまいります」 「社会道徳、人間の道徳は相対的なものですが、宗教は絶対の世界を求めることでして、 この点を私たちが注意しないといけません」 「善いとか悪いとか思っている間は、人間、ほんとうに自由ではありません。 善悪を超えた世界に入ることが宗教です。 その時に本当の大きな自由が私たちに与えられます」 そして、禅の「不思善、不思悪」という言葉が記されていました。 また、カントの「道徳が善き人を作らない。善き人が道徳を行うことができる」そんな言葉もあげられていました。 これ↑実感です。 悪がこころを縛るなら、善もまたこころを縛るもの。 なぜって、「これは善」とした瞬間に「それは悪」と悪を作ってしまうことだから。 「裁きや責め」は、「善」がつくり出すものだとあるとき痛感。 こんなトリックもありました。「責めてはいけない。裁いてはいけない」 確かに真理。けれど、形から入ると「責め地獄」にすっぽりと^^ 責める自分も赦す(受け入れる)んですね。裁く自分も赦す(受け入れる)んですよ。 すると、するすると解けていくわけです。 善にも悪にも囚われず、掴まず、ただこころが心地よいという方に進めばいいだけのこと。 なぜって。人の本質は神だからです。その本質が心地よいものならこれ確か^^ 時間を要しても、どんな紆余曲折あったとしても、神にたどりつく力を持っているもの。 それが自浄作用。命の力。自力というものです。 ■
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by machikopao
| 2007-07-13 12:39
| 宇宙のこころ
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