カテゴリ
以前の記事
フォロー中のブログ
エキサイト以外のリンク
ライフログ
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
|
2007年 07月 13日
先日、続けて夢を通して届いたいくつかのメッセージ。
その夢については、また改めて^^ と同時に、家事をしていたらお腹の奥の奥からわいてきた感覚がひとつ。 「一切を捨ててゼロにする」 かつて生まれ変わる体験をして以来、何も掴まず自分すらも掴まないよう、 常に捨てながら生きることを心がけてきていました。 でも、あまりに自然に身についていて「掴んでいる」ということにすら気づいていない… そんなものに気づく時もよくあって。 それは、捨てる時にはちょっと覚悟と責任を要すもの。 今回は、それだったよう。 自分を育ててくれた「善」と呼ばれるものを、一度全部捨ててゼロにする。 かつて、自分が信じてきたものを一度全部捨てさせられた時と同じ。 ただ、今回は前回のような怖さはなく、奮い立つ勇気が静かにむくむくと^^ 神(自分)への信頼、神の実感が深まった証かもしれませんねぇ。 「さらなる世界」は、今までの概念や道徳観すら足かせになるもの。 なぜなら、「神に善悪の判断はない」からなんですよね。 全てが「善悪を超えた存在善」 自分を育ててくれた「善」に深く感謝をし、それを手放しました。 するとね、「思いがけない思い」が解けたんですね。 思いがけない…その時まで「その思い」が煩わしいものだとすら気づいていなかったほど。 「思い」って、実にうまくドラマを作ってくれるものだとしみじみと。 進化のための神の脚本は、まさに「はてしない物語」 そして、その日ポストに『生命之光』という冊子が入っていました。 我が家のポストにはいろいろな宗教の冊子が投函されてくるのですが…。 それは、聖書に基づく学びのものでした。 そこに、こんなお言葉が↓まさにお返事ね。 「多くの人は宗教といえば、何か道徳的な善きことを行うことだと思います。 しかし、その考えは道徳でありまして、福音ではありません。 福音とは、道徳、戒律を押し付けることであるよりも、 善き魂へと回心させることです。そうすると、自ずと善を行う力が湧いてまいります」 「社会道徳、人間の道徳は相対的なものですが、宗教は絶対の世界を求めることでして、 この点を私たちが注意しないといけません」 「善いとか悪いとか思っている間は、人間、ほんとうに自由ではありません。 善悪を超えた世界に入ることが宗教です。 その時に本当の大きな自由が私たちに与えられます」 そして、禅の「不思善、不思悪」という言葉が記されていました。 また、カントの「道徳が善き人を作らない。善き人が道徳を行うことができる」そんな言葉もあげられていました。 これ↑実感です。 悪がこころを縛るなら、善もまたこころを縛るもの。 なぜって、「これは善」とした瞬間に「それは悪」と悪を作ってしまうことだから。 「裁きや責め」は、「善」がつくり出すものだとあるとき痛感。 こんなトリックもありました。「責めてはいけない。裁いてはいけない」 確かに真理。けれど、形から入ると「責め地獄」にすっぽりと^^ 責める自分も赦す(受け入れる)んですね。裁く自分も赦す(受け入れる)んですよ。 すると、するすると解けていくわけです。 善にも悪にも囚われず、掴まず、ただこころが心地よいという方に進めばいいだけのこと。 なぜって。人の本質は神だからです。その本質が心地よいものならこれ確か^^ 時間を要しても、どんな紆余曲折あったとしても、神にたどりつく力を持っているもの。 それが自浄作用。命の力。自力というものです。
by machikopao
| 2007-07-13 12:39
| 宇宙のこころ
|
ファン申請 |
||