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2007年 08月 23日
沖縄に行く前に毎日のように“母の死”の気配が届き出したんですね。
“感じる”ということは、私の場合は“受け入れる”ということ。 父の死については、これまで身近に感じることはあっても、母のそれは初めてのこと。 その気配をいろいろな思いを味わいながら、日々受け入れていったのですが、 受け入れるごとに、いつしか深い安らぎにつながっていったものでした。 そして、沖縄に行っている時に見た夢。 それは父が私に、母が骨折をきっかけに違うものが見つかって、余命を告げられた。 そんな内容だったのですね。 「でも、よかったね。どう生きるかを考えられるチャンスじゃない」と夢で言っていた私。 夢の中でも、私は私でした。笑 でも、それはリアルでエネルギーが生きていて、メッセージを感じたのですよね。 More 続きを読む #
by machikopao
| 2007-08-23 20:20
| パオのものがたり
2007年 08月 22日
絶対的な安らぎの中に身をおいた状態でふと誰かを思う…
そのエネルギーに触れたとき、これが“案ずる”ということかもしれない。 そんな感覚を覚えました。幸せや平和を黙して祈る行為だと感じたほどの波動。 絶対的な安らぎ…それは神の波動のように感じます。 ある週、石やさんに2回導かれました。 2回目に受け取ったメッセージ。無償の愛で生きることほど幸せなことはない…その感覚。 そして、誰に対しても無償の愛で生きたい、 そう湧き上がった瞬間に全身が水晶のようになった感覚えたのですね。 そこにあった全ての石のエネルギーが私の中に全部ひとつになった感覚でした。 気づくと、“情”がどこかに消えていて。自分にとってはクールな感。 私の場合は、体質的にも“情”がある間は“無償”にはならない。 そういうことだったようです。 それまで、情を断ち切ることを繰り返してきましたが、今すっと解かれました。 絶対的な安らぎ… それは“情”という“錠”から解かれたところにあったようです。 誰かの念を感じ取るのは変わらないけど、感じ取っても自分自身は安らいでいて。 安らいでいると、見えてくるものがあって。 そして、安らいでいないと見えてくるものが受け止められないこともある。 『「汝のそばには千人が倒れ、右手には一万人が倒れようとも、汝に害はおよぶことなし」 これが、わたしの光の中にしっかりと立つ者たちへの約束です。』 害が及ばない…それは、自分だけが助かるとかそういうことではもちろんなくて。 どんな状況の中でも安らいでいるということ。 そしてその安らぎが、その状況にふさわしい道を照らす灯りになる。 そういう感覚を覚えています。 その状態で、人に接すれば相手は自分自身の安らぎを映し出しすことになる… そんな風にも思います。 “安”の“木”と書いて、“案”。安らぎの木(気)でいることが、 案ずることということでしょうか。 自分にできることは、こころの安らぎの中に身を置き続けることかな。 それが私にとって愛するということ。そんな実感を覚える今日この頃です。 #
by machikopao
| 2007-08-22 07:12
| 天使のつぶやき
2007年 08月 19日
土曜日は、夫の歯医者と整体に付き合い“青物横丁”と“用賀”をはしご。
夫が治療や施術を受けている間、私はそのお茶しながらその土地の空気を感じてました。 その土地その土地の光景があり、空気があって。 夫の治療と施術の時間は、私には旅の時間でした。 行く途中、多摩川の橋を渡るとき、土手でシートを敷いている人たちを見て、 その日が二子玉川の花火大会であることを思い出しました。 世田谷区と川崎市、2箇所で打ち上げられるのです。 以前はいろいろなところの花火大会に行ったものの、ここ数年ご無沙汰。 あの人ごみを考えると…二人ともすっかりじじばばモード。 その日も、花火大会に寄るつもりはなく、あわよくば見られるとい~な~程度の期待。 “帰りに池上に寄るんだぁ”と行っていた夫は整体を終えると、 “バランスボールを買うから池上には寄らない”とお帰りモード。 多摩川の橋を渡りかける頃、“ここ数年、花火大会来てないねぇ。あ~花火か~” と私ってばつぶやいた。 すると“車を置いて、見よう”とそのまま川からかなり離れた駐車場へ。 開始まで3時間。夫はお疲れモードのうえに、歯の治療と整体の施術後。 まずいこと言っちゃったかな~。と思ったものの、これも流れだよなぁと流れのままに。 ひとまず、2時間ほど駅ビルでぶらぶらぶら。 夫の“最初の1発だけ見て、雰囲気味わって帰ろう”に同意して混みこみの川へ。 土手は人人人、それはもう人のじゅうたん。なんじゃこりゃ◎◎状態で、 土手には下りず、適当に道路に座って見ることにしました。 まったくの成り行き。花火のあがる位置も遠そうだし。と期待もないままに夜空をぼ~。 そして、花火をあげるカウントダウン。“4、3、2、1”ド~ン!!! 思わず、夫のひざ叩いて“わ~~~”と絶叫。 目の前にどでかい花火があがるとは…。花火をあげる場所の前だったのですね。 あ~、贈り物。感動とありがとうの“わ~”でした。 左を見れば、世田谷の花火。これがすごい。パチンコでフィーバー連続したよな光。 空でテクニカルパレードのようでした。 私たちは川崎市の花火を見ていたのですが、それはそれで大満足でした。 何度も何度も、両手を広げて“わ~”の大歓声。 人は、本当に感動すると第一声は“わ~”としか言えないのかもしれませんね。 だって、一斉に“わ~~”という感動の波。それの繰り返し。 美しいものを見ての感動の集結は、実にうれしいものだとしみじみ感動でした。 最後は、もう両手広げて花火に手を振りながらの絶叫絶句。 夫は“ありえない”と言ったほどの美しさ。 金色の光の滝、あふれるしぶき。空一面の金色の世界が次から次に降り注ぐ金色の粒子。 その時、ふと前日電話で話した友人の台詞が浮かびました。 電話で話していると、突如“何これ?この金色の川みたいな滝みたいなもの。 溢れるような金色のしぶきで。何これ?すっごい綺麗”といつものごとく、 何かが見えた様子。 彼女はこれを見ていたのかもしれない。ふとそれがよぎりました。 その時点では、花火大会があることも知らずにいたのにね。 行くことになっていたんですね。 今日、夫は風邪気味だと言ってました。花火大会の人ごみのためだとね。 とするなら今回の場合は、風邪をひくことになっていたということですね。 だって、花火大会に行くことになっていたのですから。笑 起きることは起きる。でも未来はいくらでも変えられ、創造していく世界。その矛盾。 宇宙のドラマは、神のしくみは、3次元的に見るなら矛盾。実に立体的なんですね。 人として、起きることを美しく彩りたいものだと思います。 #
by machikopao
| 2007-08-19 21:59
| 天使のつぶやき
2007年 08月 16日
沖縄に行く前、立て続けに出会った文章がありました。
たまたま手に取り、開いたページに書かれていた内容。 表現は違っても、内容は全く同じなんですね。 『「汝のそばには千人が倒れ、右手には一万人が倒れようとも、汝に害はおよぶことなし」 これが、わたしの光の中にしっかりと立つ者たちへの約束です。』 こんな内容です。 最後の部分が「天使があなたを導きます」そんな表現になっていたものもありました。 この数ヶ月、この意味を実感することしばしばで、友人とも話していたのですよね。 それを文章で目にしたとき、さらにこころに響くものがありました。 沖縄出発の前日の夜。それはそれは激しい雷雨でさながら雷さまの花火大会のよう。 出発の前の恒例の儀式の清めの雨。恒例になって何年経つやら…。 それにしても今回は凄く、龍神さまの大きな力を感じたものです。 とはいえ、翌朝一番の飛行機に影響ないのかしらと人間ぽく気にしたり。 夫はいつものごとく、「大丈夫ぜ~んぜん問題ないね」とさらっと一言。 いいねいいねぇ。夫は出会った時からずっとこれ。 翌朝は雨はすっかり空の上。 羽田に着くと、石垣島以外の沖縄の天気予報は晴れで、到着先の石垣島だけ曇り。 そっかぁと宇宙の仕組みを感じながらの出発でした。 ところが石垣島に到着すると真っ青な空のお出迎え。わ~晴れてる~。 そして、現地の人に知らされたのですね。数時間前までは雨だったということを。 前回の旅行でも同じことを言われましたっけ。「朝は、雨だったんですよ~。」 そんな始まりの沖縄旅行で、冒頭の台詞を思い出すような体験をしたのです。 その台詞の意味の実感を深めると同時に、その台詞との一体感を覚えています。 帰宅後も、その台詞の意味をかみ締めること続き。 何があっても大丈夫。それはもう理屈ぬきの世界。 そう、理屈ぬき。沖縄で要らぬ「理屈」が流されたのかもしれません^^ 沖縄の島言葉、「なんくるんないさー」 (「なんとかなるさ」という意) この言葉、「なんとかなるさ」より自然体の響き。私にはそう感じられたのですね。 「大丈夫」と「なんとかなるさ」が、宇宙の両手でふわっと包まれたそんな響きにね。 あの空とあの海に包まれて「なんくるないさー」そんな風 それに触れたら、誰もが愛されていることを思い出すはず。 そして、安心して生きられるだろうに。 #
by machikopao
| 2007-08-16 11:58
| 宇宙のこころ
2007年 08月 14日
実家は東京なので、お盆は7月。この辺りは、8月がお盆の様子。
今日、実家に行くとお仏壇を拭いて欲しいと頼まれさっさっさ。 私のおおっざぱさは、ご先祖さまはお見通し。 お盆にお仏壇を拭かせてもらった意味を心に響かせながら、嬉しい瞬間でした。 そして、母に手当てをしながら気づけば父の祖父母の命日の話や、思い出話し。 (ちなみに父は養子なので、お仏壇は父の田舎にあります) また夫の祖父の話や生き別れた義父の話などをしたりしていました。 こんな会話って初めて。 「夫の祖父に会ったことはないのだけれど、守られていることを感じるんだ」と話すと、 ふと温かさと嬉しさが感じられて、祖父を感じたのです。 先祖供養。 自分もまた誰かの先祖なんだ…ある時気づいたことでした。 いくつかの人生で死を体験して。そのたびに供養されて。 先祖であり、また子孫であり。何とも言えぬ営み。 さらに、過去と今の自分を癒すことで、記憶がどんどん変化していく体験をし、 もしかしたら未来の自分が過去の自分(今の自分)を癒してくれているのかもしれない。 そんなことを思ったり。今朝も久しぶりに思っていたばかり。 そして「ずいぶんたくさん死を体験してきたなぁ」ってふと思った懐古感。 「今」とは、過去と未来の交差点かな。 「今」を生きれば生きるほど、時空がぐにゃんとする世界。 「今」を大切に生きることは、先祖供養ですね。 そして、故人を偲ぶこと。それはあの世とこの世の井戸端会議。 お盆やお彼岸は、そんな時空の交差点のひとときかもしれません。 #
by machikopao
| 2007-08-14 21:42
| 天使のつぶやき
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