虹色の風
2008-09-30T15:10:18+09:00
machikopao
光の中、風を感じて、 あるがままこころのままに
Excite Blog
お知らせ
http://angel888.exblog.jp/7531144/
2008-09-30T08:30:00+09:00
2008-09-30T15:10:18+09:00
2008-09-30T08:31:11+09:00
machikopao
未分類
ふとしたひらめきで、またブログを作ってしまいました
もしよろしかったら、のぞきにいらしていただけたら、うれしいです
http://maruiosora.exblog/
「まんまるおそら」]]>
衣替え^^
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2007-09-27T16:36:00+09:00
2007-09-28T19:31:29+09:00
2007-09-25T19:32:40+09:00
machikopao
未分類
とういうことで、このブログを終了することにしました。
この2か月「ブログもうやめるんだぁ」と夫に何度言ったことか。
「あれ?やめたんじゃないの?」と何度言われたことか。笑
気配は感じつつもピタッと響かないまま流れのままに。
夫にパソコンを貸したその翌日から感覚が日ごと強まり、気づけば今日に。
下記の二つの記事を載せて終了となりました^^
ここに遊びにいらしてくださった方々の優しさに、こころから感謝申しあげます。
どうもありがとうございました。
風に身をゆだね、ただ素直にあるがままこころのままに。
飾らぬ愛を添えて☆感謝
PS しばらくの間はブログもこのままにし、遅れるかもしれませんが、
いただいたコメントにはしばらくの間は返信いたします。 vvぺこ
また、「空の花束」は出会ったことばを書きとめるメモ帳代わりとして、
たまにたまに、活用していきそうです。 vvぺこ ]]>
静けさの中で
http://angel888.exblog.jp/6138411/
2007-09-27T16:35:00+09:00
2007-09-29T16:16:09+09:00
2007-09-09T09:20:35+09:00
machikopao
天使のつぶやき
いつしか得た安らぎの世界。
安らぎを得てから、同じ涙を流すなら、どんな涙も喜びと感謝の涙に変えて流そう…
そんな感覚を持つように変わってました。
人の悲しみ、憎しみ、怒りなどの思いを感じとるということは、苦しいものです。
自分のだけだって苦しいものだものね。笑
でも、人間だからそれらを体験するのはごく自然なことでもあって。
ただ、こころで生きている人の喜怒哀楽は苦しみが伝わってこないところがミソ。
喜怒哀楽を嫌わずにちゃんと感じ、受け止めていると苦しみは伝播しないようですね。
感じ取る体験を繰り返して、この苦しみを人には味あわせたくないなぁ。
痛みは昇華させ、その時その時できる範囲で安らぎや笑いを添えていたいな…
そんな風に思えるようになったのかもしれません。
あんなに「私のことわかって~」と思っていた感覚が嘘のよう。
また、いろいろな思いに触れて受け止めて、そして安らぎの世界に出会い、
どんな中にも喜びがあることの確信を得たようにも感じます。
この体質のおかげで、人のこころの深さに出会わせてもらってきたのですよね。
そのありがたさ。
深さに出会うほど、自分の主張がくだらなくうるさく感じるようになって。
「沈黙は金」「実るほど頭の下がる稲穂かな」その言葉が深く響くようになったのでした。
だからといって寡黙になった…とか、態度がよくなったということではありませんがvv
語り好きも独り言、独り歌も、大ざっぱもこれはキャラ。
こころの沈黙…こころの頭…ということでしょか。笑
静けさの中で、ただなんとなく…]]>
それぞれの花
http://angel888.exblog.jp/6216074/
2007-09-27T16:35:00+09:00
2007-09-29T18:52:59+09:00
2007-09-24T23:03:32+09:00
machikopao
天使のつぶやき
NHKの番組に出ていたとのこと。早速友人に電話をし、いつものごとく桃源郷。
その番組を録画していたことをふと思い出し、電話の後で見ました。
堀さんは89歳。喜々としてステキで可愛らしくもあり、見た瞬間こころに鐘の音♪
堀さんは、ヒマラヤの標高4000メートルに咲く「ブルーポピー」という花を見たいと、
82歳の時にその場所を訪れたのですね。
友人が感動していたそのポピー。訪れた堀さんにもポピーにもこころ響くものがあり、
見るべき時にこの番組が与えられたことを感じました。
友人は、その花について「神々しさを感じた」と述べ、
「人に見られるために咲いているわけでもなく、「ただある」その極み」
そんなことも言っていました。
友人の話を聞いて、どんな花か惹かれながら見たのですが、それは表現しがたくもあり。
堀さんの言葉に近い感覚を覚えました。と言いつつ言葉を忘れて記せないのが残念^^;
風に揺れるく小さな可憐な花。それを支える棘に覆われた葉と茎。
そのバランスに感じた命の生々しさ。
それは、どこか不気味でもあり、でも命の極みでもあり。
畏れからくる不気味さですね。それを友人は、神々しいと表現したのかもしれません。
「命を削って出会ったその花をとてもロマンチックになど描けない」と言っていた堀さん。
その感覚が丸ごと伝わってきて、ふと「生命の泉」で見た花が脳裏に浮かびました。
帰宅してから病に倒れて足に後遺症が残った堀さんは、
病床で「もう異国の土地には行けないし、さてこれからどう生きていこうか?」
と考えたそうです。その潔さ。
そして彼女は、ミクロの世界に目を向けていきだしたのです。
クモの巣の美しさ、ミジンコの姿、それらの中に宇宙のなせるわざを見出し、
感動と喜びに包まれる日々を得たのですよね。
ミクロの世界にふれて、マクロの世界に出会ったのでしょうね。
朝から、晩まで発見にときめいて。彼女の目や放つ空気や言葉で一目瞭然。
そして彼女が言った「生き生きとした死を望んでいる」というセリフ。
「生き生きとした死」という表現が実に心に響き、生の喜びを感じ嬉しくなりました。
「枯れる寸前の植物の美しさ。89歳の今、自分はまさにその中に生きているように感じる」
とも語られており。こういう人に出会うと、それだけでうれしくなるものです。
そのブルーポピーの花を描き完成させたのは89歳の今年のこと。
出会ってから7年の歳月を経て描いたということでしょうね。
そのタイトルが『「孤絶の花 ブルーポピー』
「孤絶」という表現に感動したと言っていた友人と電話で嬉々と語り合いました。
友人いはく「孤独でも、孤高でもなく、孤絶。
すべてを断ち切った「絶」の中に、「全てはひとつ」があるよね」
「うん、本当に。そして、その中に身を置いてこそ絶対的な安らぎを得られるね」と私。
孤独とは違う全くの隔絶した感覚の世界に身を置くようになっての実感なのです。
人間の生生しさを昇華し、透明な生に変えてくれる場所。永遠の安らぎ「ただある」場所。
そんな世界。
ブルーポピーを生生しく感じたのは、孤絶を実感する自分と重なったからかもしれません。
そして、この花を見て「生命の泉」が脳裏に浮かんだ意味が響いたのでした。
「生命の泉」
これは、以前にも書きましたが今の感覚で今一度。
ある年、友人から届いたコピー。
そこには、カウアイ島の8か所の聖なる場所(ヘイアウ)が簡単に記されていました。
ヘイアウとは神殿跡。カウアイ島は精霊の島と言われ、たくさんのヘイアウがあるのです。
それを見て、また夏休みはカウアイ島なんだと2年連続で島を訪問。
詳しい地図も資料もなく。行く必要があるなら導かれるはずとレンタカーで出発した二人。
運転席でウトウトしていたのですが、あるお店の前でふと目覚め、
車を止めてそこに入ると、8か所が記されいる地図が置かれていたのです。
そして旅は始り、コピーに記された順番通り1か所1か所訪れて行きました。
全ては「跡」で、あるのは史跡の看板と空気のみ。ただ祈るだけで、特別な感動はなく。
でも、最後の「生命の泉」に7か所の意味も全てが凝縮されていたのですよね。
人気のない灼熱の砂浜、あまりの熱さに飛び跳ねるように歩きたどりついた崖。
「生命の泉」はその崖にあるのだと夫が言うのです。
砂浜を歩き崖にたどりつくだけでもしんどかったのに…
下は海、岩肌がむき出しの崖を登り出したものの、登っても登ってもたどりつかず。
「場所が違うんだよ」と珍しく諦めようとすると、自分が見てくると夫が登って行ったのです。
待っても待っても、戻ってこない夫。
ど~しよ~。ここで落ちたら誰も気づかないよな~。助けを求めることもできないな~。
でも心に従った神の道だから、ここで死ぬことがあったらそれも御心。
前倒れの死で間違いはない。そんなことを思いながら待っていたのですよね。
似た体験を、違う「崖」でも2回ほどしたことを、最近になって思い出しました。
いつも崖で命がけの体験。信仰を試されていたんでしょうね。(無宗教ですが^^)
覚悟ができた時、「あった~!!」と言いながら戻ってきた夫。
夫に導かれて歩きだしたものの、それが想像以上の距離で、
そこを往復してくれた夫の優しさを感じたものです。
あまりの暑さに、最後は上半身裸になったほど。
こんな乾燥しきった岩肌に泉なんてあるんだろうか?と思いつつ、
たどり着いたその場所にあったのは、たったひとつ添えられた椰子の葉で包まれた供物。
あとは、泉も名所の看板なども何もないむきだしの岩肌だけでした。
こんな場所に供物を添えにくる人がいる、そのこころに感動を覚えたものです。
私はといえば泉を描いていたのでガックリし、何のためにここに来たんだろかと思ったほど。
休みながら、こころを静めて感じてみようと思った瞬間目に入った白い花。
乾燥しきった岩肌なのに、その近辺にだけ咲いていた白い花。
その時、「生命の泉」の意味がこころに響いたのですよね。
同時に、そんな花を咲かせなさいとのメッセージに感じられ、「わかりました咲かせます」
そんな祈りを届けたことをふと思い出しました。
ここで、以前の記事(「森のパオ」〝聖なる旅 生命の泉〟10月23日 記)
を見直して書いていることが殆ど同じ。ちょっと驚きと安心の新鮮な感覚でした。
どうやら自分にとっての真実をぶれずに生きているようです^^
その記事で、花を見たときのことを、こんな風に表現していました。
「何もない」 そこにこそ、真実の花は咲くのだということを。
そして、その場所はどこでもない、いのちの中に宿るのだということを。
断崖絶壁の誰もいない場所。命をかけたその場所にあった「生命の泉」
いのちに宿る「生命の泉」もそんなところにあったように思います。
カウアイ島での体験の翌年あたりに起きた崩壊。
その崩壊で、徹底的に捨てさせられて、ミジンコのように小さくなって、
自分の中に宿る生命の泉に触れたのですよね。
今、昔の記事↑を見て、改めてそのことを思い出し、また泉の深さを感じました。
崩壊の中で触れたこころの中の「生命の泉」
今思えば「新しい世界」に片足を踏み入れた瞬間だったのでしょうね。
それから、ゆるりゆるりと流れに運ばれて、今どうやら両足を踏み入れたようです。
「生命の泉」「いのちの源」「全きの世界」に両足で立っている自分を感じます。
人間の世界にありながら、ドロドロしたものから隔絶されている世界。
あの時に花を咲かせますと祈ったその祈り、
その花がこの身体とひとつになって今ここにあるのよな感覚のよう。
思考も癖も自分の中にあった善や大切なもの(物、者)すらも解き放つ。
全てを解き放ってこそ、孤絶された中に身をおいたとき「全」の世界、
ま~るい真の調和の世界に出会うことを実感しています。
「命をかける」とは、「自分を捨てる」「宇宙に自分の命を委ねる」ということでした^^
8か所目の生命の泉に出会えたのは、7か所をひとつひとつめぐり、
その空気や気配を感じてきたからゆえのこと。
看板も泉もないのに「生命の泉」だとわかったのです。
ひとつの場所に到達するには、たとえそれが「そこにある」と知っていようとも、
〝知っている〟だけでは出会えないこと。
ひとつひとつのプロセスがその場所へといざなってくれること。
その時、感じたことであり、後の崩壊で深い実感となりました。
捨てる作業は勇気を要することもあるけれど、捨てたらそれは宝と変わるもの。
捨てて捨てて出会うありのままという神姿。そこからはじまる「今ここ」という自由な世界。
今この時期に、孤絶の花が、生命の泉の花を思い出させてくれたこと。
新しい領域に入ったことの証明書のように感じました。
今改めてより深く思います。
それぞれの花。己が花。
ただそこにあるだけでそれでいい。たたあることのその価値を。
そして、日々の営みに穏やかな自由を感じるふつうの奇跡。]]>
おしらせ
http://angel888.exblog.jp/6187028/
2007-09-18T23:13:19+09:00
2007-09-18T23:13:19+09:00
2007-09-18T23:13:19+09:00
machikopao
未分類
修理に出す間、このパソコンを使うことになりました。
ということで、2週間ほど(と夫が申しておりました)お休みいたします。
ブログを書かない生活って、左脳停止ということでしょか。
ますます、ぐ~たらのレベルをあげなさい(笑)ということでしょか。
どうぞ、みなさまくれぐれもお身体大切にして、
楽しい秋の実りをご自身にプレゼントしてあげてくださいね^^
そして、また遊びにいらしてくださいね。
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がんばらなくてもいいんだよ
http://angel888.exblog.jp/6170241/
2007-09-15T17:08:00+09:00
2007-09-16T09:17:34+09:00
2007-09-15T17:08:33+09:00
machikopao
天使のつぶやき
5年前の自分にどんなことばを贈るか?と質問してました。
その女の子たちは、昔のアイドルを彷彿させるよなマシュマロのような可愛い声と話し方。
その子たちの話す内容に、運転する夫がこちらを向き、私も思わず夫を向いていた…
その目は、すっかり話についていけないおじさんおばさんの目でありました^^
なんか、そんな感覚がこれまたなんかいとおかし。
その年齢、その時代、その瞬間の感じ方。なんかいいなぁ。「今」という「旬」の味。
11才の頃から、歌手を目指してレッスンしていたというその女の子たち。
その11才の自分にどういう言葉を贈るか…。
一人目の子がマシュマロのような声で「がんばれって言います」と返事。
「今だってがんばってるのに、がんばれって言うの?10代でしっかりしてるね」とDJ。
二人目も三人目も同じ台詞。さすがに、3人目は前に習えという空気もチラホラと。笑
すると、「がんばらなくていいんだよ。がんばらなくていい人が多いんだよ」とポツリと夫。
夫からその台詞が出るなんて。わ~~うれしいなぁ。
夫はとてもがんばりやさん。繊細ゆえに、がんばるしかなかったよね。
でも、そんながんばりやさんを認めてなかった夫。
そのがんばってきた自分に出会ったんだろうね。
その台詞の響き、そこに確かに感じたよ。よかったね。
と思いながらも、すかさず声高らかに言いました。
「5年前~?わたしなんて、もう偉かった偉かったと、
自分を抱きしめ頬をすりすりしてあげちゃうわよ~」と身振り手振りで大げさに。
ほざく妻に、あわてて「よくやったよくやった」と頭を撫でてたしなめる夫。
5年前といえば、嵐のど真ん中。たしなめるしかない夫でありまする。笑
何はともあれ、自分を受け止めてあげるたび、
自分に気づいてあげるたび、出てくることばは変わっていくものですね。
なんてことない言葉でも、深く優しくなっていく言葉の響き♪]]>
妻の才能?
http://angel888.exblog.jp/6170175/
2007-09-15T16:45:00+09:00
2007-09-15T20:37:15+09:00
2007-09-15T16:45:34+09:00
machikopao
天使のつぶやき
NHKだからねぇ。笑
「そ~お~?私には丁度いいテンションに聞こえるけど~。
最近のテレビやたらテンション高いんだもん」と言うと、「確かに」と夫。
すると、「まちこはいつもテンション高いのね~」と夫。
「え~~~」
最近、声も低音になってるし、安らげば安らぐほど、ノリがなくなっているのにな~。
夫から見ると、テンションが高く見えるようです。
「テンション高くて普通なんだ」ですって。
さて、その番組の後に今度は高校生が描いた自画像がテレビの画面に映し出され、
あまりのうまさに「すご~い」と驚嘆。
「私には絵の才能ないもんな~。って私の才能って何だと思う?」と夫に聞いてみると、
いつもの笑い顔で「ままっ、なんでもいいんだよ。」との返事。
ははは、わたしも同感なんだけど…笑
でも、「○○(夫)から見た私の才能ってなんかある~?」ともう一声聞いてみた妻。
すると、笑いながら「ま~る」とひと言。
私も抽象的な表現をするけれど、夫も同じ。だからお互い伝わるのだろうね。
「まる。○?」おいおい、私の顔のこと?なんて思いつつ、でも伝わってきた響き。
「まる??」と尋ねると、「全てをまるく納めるの~」との説明。
夫からの思いがけないことばに、なんだか嬉しかった妻。
いつも「円満○」を描き続け、みんなそれぞれ円満に納まるところに納まるようにと、
○をイメージしながらノートにいくつも描いた「○」がふと浮かんできたのでありました。
夫が私をそう感じてくれるだなんて、なんか新鮮な感覚でした。]]>
サンクチュアリ
http://angel888.exblog.jp/6168870/
2007-09-15T09:19:00+09:00
2007-09-15T16:15:43+09:00
2007-09-15T09:19:37+09:00
machikopao
天使のつぶやき
この空気が彼女の本質なんだろな~なんて思いつつ。
妖精の世界と秋の空。
そんな秋の空の下、自分の描く生活(どんな所で、どんな家に住みたいかなど)や、
どんなことをしているのが幸せかを話す姉。
昔からそのイメージを言い続けているね。
その描く生活を彼女の中で実感できるようになれたらいいね…きっとなるよ^^と思いつつ。
その話を聞きながら、秋の風を感じながら「自分にはそういうのないな~」とぽつり。
これをしているときが幸せというのも特にない…。
今の生活が描いてきた生活。描いていた生活が今の生活。
そして、いつも今していることになんだか満足しているんだなぁ。
っていうか、“今ここ”だけの感覚なんだよなぁ。
淡々と静かにぼ~~ そんな生活がいとおかし。
ここに越してきたとき、いろいろな流れがありサインが届けられ、
そのサインから、ここは私にとってサンクチュアリになることを感じたもの。
でも、その感覚は確かだったなぁ。とひとりうなづくこの秋の風。
自分にとって真に大切なイメージは、大いなるところから届けられるものだから、
この足元で“実感”という現実になり、膨らんでいくものなのでしょね。
そして、最高のサンクチュアリは“自分の中にある静かなあの場所”…きっとね^^
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相手は鏡
http://angel888.exblog.jp/6156791/
2007-09-12T21:43:00+09:00
2007-09-15T19:04:08+09:00
2007-09-12T21:43:29+09:00
machikopao
天使のつぶやき
同時に、自分もまた誰かの鏡になっているのですよね^^
誰でも多かれ少なかれ、相手によって話し方が変わったりするものかもしれませんが、
私の場合、この体質と未熟さがあい重なりあって、それが顕著だったのですよね。
八方美人ならまだよくて「なんでこんなこと言っちゃうんだろう?」ということばかり^^;
心が空っぽになり出して、相手のエネルギーを感じ取り、
そのエネルギーと同じものを出してるのだと気づきだしたのですね。
相手の心の奥底に出し切れてない「怒り」があれば、何だかイライラした口調になったり、
相手が自己否定が強いと、こちらの口調が責め口調になったり。
もちろん、自分の中に昇華しきれてない思いがあったからであるのも確かなのですけどね。
なので「無心からの言動であるように、また相手が必要とする言動であるように」
そんなことを毎朝祈っていました。今も、心にとどめていることですが…。
なんせ、自分の言動でしょっちゅう自分が苦い思いをしてきたもので。
自分の言葉に責任を持つための、おまじないでしょうね^^
心がさらに空っぽになると、自分の思いとは違う言葉が出ることがあり、
それを聞きながら相手の状態や、自分の本心を知ったりすることもあるのですよね。
そのうちに、相手のエネルギーを淡々と受け止められるようにもなりだして…。
深い安らぎを得るようになってからは、その安らぎの中にいられるようになりました。
そういう体験や、長い間「人は鏡」と思って自分を省みることをし続けてきた体験を通し、
「人は鏡」を実感なのでありました。
同じ状況にいながらも人はそれぞれ感じ方が違うもの。
たとえば、Aさんを見たとき、夫と私では感じ方や受け止め方が違うわけで。
その感じ方こそが、「鏡」なんですよね。
「げっ」と思う場合、形は違えど自分の中にそんな感覚の部分があって、
それが嫌われて放置されていると思ってほぼ間違いないでしょうねぇ。
人のせいにしたり相手を批判したくなるのは、
自分の中のその部分が嫌いだったり、気づいてなかったりしていてね^^
同時に、「ステキ」と思うところも自分の中にあるものなんですよね。
これは最近体験したのですけど、自分が直したくて変えた部分が再浮上。
あ~、自分ってこんなことにくよくよするキャラだったんだぁとか、
見下げる癖だなぁとか、自惚れやだよなぁとか、自意識過剰の姿とかまぁ出るは出るは。
過去の自分の思いを「今」再度、バーチャルした感じでした。リアルにね。笑
ほとんどの思いの根底は、自分への信頼のなさから生じたものでした。
昇華したものが今またなんで?昇華できてなかったのですか?
と尋ねると、気づかされたんですよね。
「直そう」とした部分、それはその部分を否定したと同じだったんだって。(私の場合はです)
否定して嫌って、変えたんですねぇ。それはそれでよかったのですが…。
どんなものであれ、「否定」は否定。受け入れずに、“力”で直したのですよね。
だから、直そうとしない人に対してどこか厳しさがあったわけです。
その時点では「直す」という選択は正しくて、だから「今」があるのですけど…。
でも、力づくは不自然ということでしょうね。
否定や嫌悪を土台にして変えるのでなく、まずはその部分も受け止めてあげること。
そうすると、自然に変化していく流れに乗れるというわけです。
受容とは寛容。そして愛とは寛容。
自分を愛するとは、自分に寛容であること。
それは、人にも寛容になっていくということですね。
「直そう」と思って変えたところに今一度光が当たった感。
そして嫌った部分に、こころを込めて「ありがとう」と言いました。
「ありがとう。お疲れ様」というたびに自然に柔らかく包まれていく…
それらがあってくれたから、「今」があるのですからね。
実に面白いです。人のこころの奥深さ。
それに気づけたのも、人が鏡になってくれたから^^
人は鏡、自分も鏡。
出会う人に安らぎとリラックスとこころからの笑顔の鏡であれたらいいなぁ♪
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父のつぶやき^^
http://angel888.exblog.jp/6156343/
2007-09-12T20:28:45+09:00
2007-09-12T20:28:45+09:00
2007-09-12T20:28:45+09:00
machikopao
天使のつぶやき
毎年役員をする父は、今年は断ると言いながら結局参加。
いつしか、役員の中で長老となっている父です。
さて、その父がお祭りの翌日にあるハチ祓いで久々にしたたかに酔っ払った様子。
チクチク父に言う母と、言われる父の両方の感覚がなんだかわかるんですねぇ^^
あ~、この親にして私あり。ってことでしょね。笑
そして、母がこっそり私に言いました。
酔っ払っていた父が、帰って来てくだをまいたよう。
母がケガをする前も、「バカ」を連呼し、母にもあ~たらこ~たら言ったよう。
年とともに、父と母の力関係が逆転したかのように、
母の父への口の勢いは目を見張るほどだったので、
父は、酔ってそれを発散させたんだろね。と思っていたものでした。
いくつになっても夫婦喧嘩は犬も食わぬ。ですからね。笑
「コツを覚えた」と言う母は、二階から下りずに階下にいる父の様子を伺っていたとのこと。
女は強し!!
すると、父は散々くだまいたあとに歌い出したとか。
「か~ちゃんのためならえ~んやこ~ら♪」ってね。
それを聞いて笑ったと言う母。わたしも母にそれを聞いて大笑い。
そんな話を実家に行って聞いた帰り道、ふとそのフレーズと父の思いがよぎって、
思わずなんだか泣けて…。母から聞いたときは笑ったのにね。
「か~ちゃんのためならえ~んやこ~ら」
今までの父、そして今の父。父の感覚がわかるがゆえに泣けたかな。
そんな父の感覚を、たぶんわからないのがこれが母^^
よく、「お父さんは私のことを何にも考えない」といったようなことを言っていた母だけど。笑
夫婦って、いくつになっても面白いもんだと思う昨今です。]]>
共感は宝くじ?
http://angel888.exblog.jp/6136704/
2007-09-12T19:14:44+09:00
2007-09-12T19:14:44+09:00
2007-09-08T23:00:08+09:00
machikopao
天使のつぶやき
ぐっと涙が出るような。でもその涙がふっと深みに入っていくような。
ありがとうさえ出ないありがとう。
こころに染みる…その独特な味わい。
痛かった思いほど、やがて“味わい深さ”になっていくみたいだね。
どんな思いも、ひとつひとつ味わうことの価値を改めて感じた瞬間でした。
そんなことを、遅い夕食をする夫に話したところ
「(自分も)心に染みてるもんね。まちこのご飯染みてるもん。お腹すいてるからね^。^」
「………ーー;」
こっちはしっとり語ってるのに!!とムッとしたものの、
こういう話が不得手な夫の精一杯の切り替えし。笑
不得手だと知っていて、話をした私に思いやりなかったねvv、うんうん。
人の数だけの感覚があるってことを、つい忘れてしまいがち。
でも、夫によってふと思い出させてもらうのでした。
そして、人の数だけ感覚があって自分の感覚もその中の一粒で。
自分の思いにちょいと酔いしれていたようだわね。
とひとり台所で洗い物しながら、うなづいたのでありました^^
そういえば、昔は人に共感を求めては期待する反応がなくそのたび寂しがったもの。
共に暮らす夫に対しては、特にそれが強くって。
そういえば、寂しさが怒りとなってよく爆発したものでした。
でも寂しさって、なんで怒りという力になるのかしら不思議だわ~。
やがて自分が自分に共感してあげるうちに、外に共感を求めなくなっていました。
それに、共感を求めるうちは全部空振り^^
どうやら共感も求めている間はされないようになってるみたい。笑
でも、共感を求めなくなればなるほどラクになっていきました。
共感を求めなくなるほどになんだか共感が増えた…感。
共感って、宝くじに当たるようなもの。
共感されなくて自然。共感されたらわ~~ありがと~◎◎
でも、その共感も結局は一瞬の泡のごとく…なのですね^^
だからでしょうね。共に感じられる瞬間がものすごく嬉しいもとのに変わりました。
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重陽の節句
http://angel888.exblog.jp/6135989/
2007-09-08T21:07:00+09:00
2007-09-08T21:10:31+09:00
2007-09-08T21:07:34+09:00
machikopao
光の景色
陽の数字で、一番大きい「9」が重なるので、重陽の節句。別名「菊の節句」。
菊酒を飲んで、邪気を祓い長寿を願う風習があったとか。
また、節句の前日に菊に綿をかぶせ、菊の香りと夜露をしみこませたその綿で、
翌日身体を拭いたとか。邪気を祓うことひとつにも、「粋」があり遊び心があって。
それを優雅と言うのでしょうね。
1月7日、3月3日、5月5日、7月7日、そして9月9日。それぞれの節句。
どの節句にも、その時期の穢れを祓う力(薬効)のある植物を関わらせているのは、
まさに先人の知恵。
どの国にもどの地域にも、そこにふさわしい植物が与えられているということですね。
といわけで、今日菊の花を買ってきました^^
この夏はあまりに暑く、お花は夏休み。久々のお花です。
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頭の運動会^^
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2007-09-08T11:48:00+09:00
2007-09-09T22:55:12+09:00
2007-09-08T08:48:12+09:00
machikopao
天使のつぶやき
そこで「まぁまぁ頭の中が大運動会。頭を止めなさい!!」と先生のひと言。
それができるなら苦労しないわい!!と思ったよな記憶。
悲しみやら不安やら不満やらで、頭いっぱいくるくるくる。
あとは自分にとってこの最大の出来事を考えるなだって?
そんな感覚もあったよな。
そうなんですよ。その出来事を「最大の出来事」にしたがっていた感が。
整体からの帰り道「こんな状態で考えるなと言われても、無理だよね」と友人のひと言。
彼女の優しさ胸にほっこり感じつつ。
でも、後になって整体の先生の言っていた意味も、私がどんな状態だったかも、
全て実感でわかるようになりました。
思考を止める習慣がなく術を知らなかったのと、思考を止めることが怖かっただけのこと。
そしてもうひとつ。大げさに劇的にしたかった…。魂くん演出してくれました。笑
なぜあんなに以前は頭を使っていたのか…??
今となってはどんな思考回路だったか忘れてしまったこの不思議。
ただ、たまに他者の思考エネルギーを受け取り頭がくるくるする時があって、
そのたびに、あ~そっか~こうやって頭を使っていたんだな~と思い出す感じです。
そして、それを感じることでさらに実感深めたのですよね。
頭の運動会を止められない癖って、止めることをどこかで怖れていること多く。
その理由は、多くは「我」ですよねぇ。
自分の思い通りにしたい抵抗とか、真実の声を聞くのが怖いとかetc.
「我」がいけないわけでなく、それもまた学びの道具。
「我」があると苦しいものね^^→だから“楽になりたい”→手放していこう。なんて風に^^
そしてもうひとつ。
頭を止めると訪れる静けさ。あまりに静寂で、あまりに満ちていて、あまりに平安で。
現実社会やこれまでの人生パターンと違うゆえに、それを信じるのが…怖い^^
まさか、そんなにうまくいくはずがない。きっとこんな安らぎが続くはずがないetc.
そんな怖さもあったりね。だから、それを信じないために、もっともらしく頭を動かせ、
その静けさをなかったものにしてしまうよな^^思考癖って案外多いようですね。
「信じる」力を養うのに必要な体験なのでしょうね。
長い長い間、頭を運動会させる体験をし、そして静寂を知り、実感したことといえば…
頭で考えているうちは、いくら考えても人生は思い通りには行かないということと、
静寂に委ね、神の思し召すままにと、何もかもを手放し自分を流れに明け渡した時、
気づくと思い通りになっていくということのよう^^
いや、「どんな時も思い通りに流れていた。ということに気づく」というニュアンスの方が、
より近いかな。
思い通りの人生って、自分の思いと大いなるものの思いが同じということ。
そのとき、流れに運ばれるようになっていくのだと感じています。
はかないものは何一つなく、そのはかなさこそが完全であり永遠であるような…。
全なるものとの絶対なる一体感。そして安心感。
秋の運動会のシーズンにちなんで、頭の運動会の話とあいなりました^^]]>
実況中継?
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2007-09-08T11:44:00+09:00
2007-09-09T00:04:00+09:00
2007-09-08T11:44:58+09:00
machikopao
天使のつぶやき
わたしに、友人がフラワーエッセンスをしてくれました。
その友人はフラワーエッセンスのボトルを入れたリュックを背負い、
両手には分厚いマニュアルを携えて来てくれて。
どん底でしか出会えない喜びや宝物、それはかけがえのない贈り物です。
さて、その友人に嵐の中で笑われたんですよね。
「こんなときに笑うのはホント失礼なんだけど、まちこちゃんおもしろい!!」って。
私の話しが、実況中継を見ているようなんだとか。
どうして、自分のことをそこまでリアルに実況できるのかって。
そして、友人は「こんな楽しい姿を、私だけ見ているの申し訳ないくらい。
いつかご主人にも見せてあげなね。ご主人楽しいと思うよ」なんて、言ったのでした。
素直(笑)なわたしは、そのことばを実行するようになっていきましたとさ…^^
違う友人にも「つむちゃんて、どんな時でももうひとりの自分がいるって感じだよね。
それってすごい思うよ。そういうことってあまりできないもんだよね」
みたいなことを言われたことがあったのですね。
そういわれて「え?みんなそうじゃないの?」なんて気づいて、
その時、はじめて人と話していて時々感じた違和感の意味を納得したのですよね。
このどこか冷めている感覚に「わたしって冷たいよな~」と、
長い間のコンプレックスでしたが、特質であり生かすものだと変わっていきました。
コンプレックスって、実は宝の種なんですね。
それを生かしたときに自分にとっての力と宝になっていくもので、
生かすには沢山の愛を注ぐことのような気がします。
もうひとりの自分と演じる自分。子どもの頃から、いつも二人三脚の旅。
そして、冷めている目は、愛を知ったことで、覚めている目になっていったのかもしれません。
人として演じる自分と、もうひとりのさめて見守る自分。そんな二人三脚の旅…
二人三脚が、いつしか溶け合い一つになってゆるりゆるりと流れに運ばれ今の旅。
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感覚がものさし
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2007-09-04T20:30:00+09:00
2007-09-04T22:35:38+09:00
2007-09-02T21:16:34+09:00
machikopao
天使のつぶやき
それを読んで、今さらながら納得した次第。
占い本は大好きなので、同じ本を目にすることありますが、毎回新鮮な感覚なのです。
その占いには「自分の世界に人をいれない」といったことも書かれていて。
最初に読んだとき、そうか~特質だったのか~と納得したものです。
けっこう、誰にでも話しかけていくタイプだったので自分で気づかなかったのですが、
結婚してから「あれ?もしかして…」とそれに気づきだしたのですよね。
特質だと知ってホッ。もう無理せず、逆にそれを大切にしてあげようと思ったものでした。
直すより、受け入れて生かす。これが私には自然かなって思うようになりました。
「判断基準が感覚」。それに気づいたのはこの数年のこと。
それまでは、自分は論理的だとばっかり思っていたのですからね。
人のことに首つっこむより、まずは自分を知れよ…ですよね。笑
確かに、人と話していても違和感があってその要因はそこにあったわけです。
「つむちゃんって、根拠のない自信があるよね」と友人に言われていたのも、
感覚が基準と知ってとわかりました。笑
その感覚は、自分にとっては真実。行き過ぎたり、コケたりしながらも…それでもね。
ただ、証拠や実績がなければ人は納得しませんよね。
そんなことに気づかないでいたのです^^
もともと、口が達者だったので(笑)論理だてることも少しは学び(つもり。笑)はしたけれど。
個人的な自己表現や主張がなくなった今となっては、感覚100でそのまま行っちゃえっ。
感覚を体現していくこと。もし、人に必要であればその体現が証拠になるのよね。
と実感するようになりました。
私がもし、人として表現したいものがあるとするなら…。ひとつかな。
いつも包んでくれているあの大いなる愛。天の慈愛。あの空気。
それには、ただ無邪気に感覚に耳傾けて、自分に素直でいくことかなって思うのでした。
人に適切なことばで表現できない時は、人としての未熟さを感じるものの…vv
でも、それは言葉を知らないからだけでなく、その時点で自分が体得できていないか、
もしくは言う必要がないからだけのこと^^と思うのでした。
でね、思うんですよね。
ありがとう、ごめんね、好き。そして笑顔。これだけあれば素直に生きていけるかなって^^
それ以外の思いを感じるような場所では、円くなる距離を見つけるか、
見つからない時は円い気持ちで距離を置けばいいわけで。
あとは、そのときそのとき感覚が言葉を使わしてくれる…なんて思っています。
そうそう、夫は言います。まちこの目は全部を語るって。笑
同じようなことを、占い師さんにも言われたことありました。
ことばを探していたら、「あっ、もうそれだけで何を言いたいかわかったわ」って。笑
日本語しか話せない私。海外でも同じようなことが何度かありました。そういえば。
ところで、今こどもたちの間で「おしりかじり虫」という歌が人気あるとか。
その虫にかじられると、幸せになるんですって。
それを夫とテレビで見た翌朝、出社する夫に火打ち石とハグのあと、
夫のお尻かじったのは言うまでもなく。今もたまに、かじります。
そういうことを楽しんでくれる夫は、私の感覚の理解者だな~としみじみと。
そんなおバカなこと…それが私には大切だったりするのですよね。
そしてね、自分の一番の理解者は自分(守ってくれる存在たち)じゃないかと思っています。
自分の弱さも、強さも、優しさも、冷たさも、醜さも、美しさも、嘘も本当も、
誠実も不誠実も、なぜそういう行為をとったのか、どんな思いで生きているのか、
何もかも逐一知っているのは自分(見えない存在)だけなんですよね。
よほどの霊能者さんに見てもらえば別でしょうけど^^
そして、自分の理解者になればなるほど、自分が力強い味方になっていくことを感じます^^
誰に何を言われても、自分に胸を張れたらそれでいいんじゃないかな。って思うのでした。
胸が張れない時は、確認させてくれる言葉やサインが届けられるもの。
どんなときも、やっぱり守られ導かれているこの世界。
でね、自分への理解と、他者への理解は比例していくような気がしています。
誰もが、安心して自分を真に信じてあげられるといいですね^^]]>
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