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2007年 06月 06日
老若男女から慕われ、頼られている70過ぎのおば。
こよなく人を愛す彼女は「あるがままに生きる」ことを身をもって教えてくれた人です。 「感謝であけくれて生きること」これが口癖であり、そんな生き方をしています。 彼女を見ていると、人間はどうやって生きたら幸せでいられるのかを教えられたり、 また様々な紆余曲折を体験し、それを全て後から生きる人のために生かす姿に、 大切なことを感覚的に教えられるのでした。 また、物を斜めに見る人には誰に対しても「そういう考え方はいけないよ。そういう考え方だと これこれこういう風になっちゃうからね」などと、愛を持って注意を促せる人なんですよね。 その彼女がよく言う台詞。 「この年になってくるとはっきり答えが出てくるね。年寄りは二つのパターンに分かれるね。 角がとれて丸い年寄りと、我が強い年寄り、この二つだね」 確かにそうだな~~と、わかるようになりました。 両者の特徴が明確に見えるようになった感じです。 かつて、佐藤初女さんのお宅に伺った時、彼女の前で私の心はシーンとなる体験をしました。 精神的に大混乱状態だったのに、シーンとね。 大混乱は幻想で、この静けさこそが実相…はっきり感じたほどでした。 そして彼女の台詞に触れて「なんの裁きも判断もない」とはこういうことか… 初めての体感でした。 そういえば、アイヌの長老にお会いしたときも同じような感覚を覚えたもの。 今思えば赤ちゃんと同じ。赤ちゃんは何もない。 だから誰もが赤ちゃんには知らぬ間に心預けられるんですよね。 ただ、人生の体験を経たうえでの「何もない」は、そこに深遠な何かを感じました。 「我」の体験は人としてごくごく自然。 「我」を体験するために生まれてきたといっても過言ではないし、 その「我」という「角」を削っていくことがステキな課題のひとつである気がしています。 自分は角々しく生きる!!そう決めて貫く生き方は、それは「我」とは違って…。 ある意味、自分の「角」を受け入れて初めてできることだから、これまた気持ちよいもの。 「我が強い」というのは、自分の「我」に気がつかないということかもしれません。 「我」に気づかずに年を重ねていくと、年を重ねた分だけ心が頑なになっていくような。 我が強いというのは、本人が一番しんどいんものなんですよね。 自分がそうだったので、よくわかるのです。 自分本位で生きることは、本当はとても寂しいこと。 素直になれない分、心からの感謝の体験が少ないのですからねぇ。 感謝を感じられることほど幸せなことはないと知りました。 そして、誰かを損得抜きで心から想えること。 それがどんなに幸せで、心が満たされ平和の中で生きられるかということ。 我が強いと、相手を自分の尺度で判断して決め付けたり、思い通りにしようとしたり、 相手を丸ごと認められる喜びがよくわからないのですからねぇ。 人は生まれた時は、誰もが真っ白なこころ。 「我」を解き放てば、そのこころが現れてくるものなんですよね。 そのこころこそ、「神性」 自分の「我」に気づくか気づかないか…それだけの違い。 それだけの違い…でも、それが実は大きいことなのだと知りました。 「我」は恥ずかしいものでも、責めるべきものでもなく、学びの道具。 ただ気がつけばいいだけのものだったのだなぁ。 「我」に気づくたび、またひとつ円くなる。そんなありがたきものだと、再認識した昨今でした。 「我」を放っておいては心の天国に出会えない…その仕組み。 宗教や自己啓発、哲学やスピリチュアルな教えで「我」を捨てることを促すのは、 人の心の天国を思い出させるためなんだとしみじみ感じる次第です。 また、どの分野においても「無我(心)」で成し遂げたものに感じる感動は、 そこに天国が写し出されるからだったのかもしれない。そんなことを思ったり。 そのおばの口癖であり、私がつい初心を忘れそうになると思い出させてくれる言葉。 「人間死ぬまで日々勉強。もうこれでいいと思ったら、そこで止まっちゃうからね」 人は、丸裸で産声あげて、三角四角と角味わって、その角とって円く人生結んでく。 そんなことを感じた今日です。この肉体離れるその瞬間までいくらでもある可能性。
by machikopao
| 2007-06-06 12:29
| 天使のつぶやき
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